12月8日、AMSEA主催のジュディス・バトラー講演@東大本郷キャンパスに行ってきました。以下に内容を要約します。Twitterアカウントを公開にしていないので、拡散していただけると助かります。
1. イントロダクション
講演は北田暁大さん、清水晶子さんの司会で始まりました。清水さんが故・竹村和子さんに言及し、バトラーがそれを引き継ぎます。竹村さんはバトラーの翻訳者、日本における第三波フェミニズムの旗手として高名な方でしたが、2011年に亡くなっています。
最初に竹村さんに対する追悼を述べることが講演の主要なテーマであるGrievability(悲嘆可能性)へのフックになっていました。この鮮やかな流れは見事でした。竹村さんは我々のコンテクストにおいて “Grievable” であるということでしょう。
2-1. Grievability(悲嘆可能性)とは
講演はほとんどがGrievabilityについての話でした。最初にバトラーはGrievable(悲嘆可能)でない生に価値はあるのか、というアプローチから話を始めます。このイディオムは英語でも奇妙な言葉であり、同時通訳者は苦労しているだろうとのことでした。
悲嘆可能でない生に価値はあるのか、悲嘆可能でない生は生きていないと見なされるのか。この問題提起を具体化するためにバトラーは歴史学者の引用をしていましたが、メモを取りきれませんでした。要約すると「第二次大戦後においてドイツの人々は喪われたドイツの一般市民の生について十分に嘆くことが出来なかったのではないか」という内容でした。
この流れでフロイトの喪とメランコリーの話が出てきました。つまりドイツという国自体が喪われた一般市民について判決を下すこと、喪失を受け入れることを拒否し、喪とメランコリーを受け入れることを拒絶してしまったのではないかと。
バトラーはこれを受け、公的な悲嘆のパフォーマティブな次元を構築し、新たな時空間の配列を作ることが必要であると述べていました。この部分について詳しい説明はなかったのですが、恐らくナチスの罪過やそれにより犠牲になったユダヤ人たちとは別の次元で喪われたドイツの一般市民について考え、公的に彼らの死について「嘆く」行為遂行的なレイヤーが必要だという意味でしょう。
2-2. どのような生がGrievableなのか
次にバトラーは、ヒューマニズム的なスローガンを掲げ、すぐにそれを棄却していました。つまり「どのような生でも悲嘆可能である」という命題です。それは現実と乖離があるとバトラーは述べていました。実際には世界の多くの場所でそのようにはなっていないと。「全ての生は悲嘆可能であるべきだ」という記述的な主張のみが正しいとのことでした。
そこでバトラーは「では誰がどの程度悲嘆されているか測ることは可能か」との提起をしていました。しかしそれは先ほどと同じくすぐに棄却されてしまいます。そんなことは不可能であるし、可能であるとしたらむしろ現状に対して逆効果であると。またコンテクストによっても異なるので、計算することが出来るようなものではないだろうとのことでした。
また、デリダに則って言えば一部の人々については実際に計算できるが、一部の人々は「計算できないほどプレシャス」だということになるだろうとのことでした。デリダには明るくないのでよく分からなかったのですが、対象がよりGrievableである場合に計算できないほどの差延が発生するという意味でしょうか。
2-3. 新たな生政治(Bio Politics)
バトラーによれば、Grievabilityは新たな生政治であるそうです。基本的にはフーコーの線でした。Grievabilityは平等の必要条件であるので、Grievabilityを通して平等という概念について考える必要があると。つまり平等というものを導くためには平等なGrievabilityがまず前提として存在していなければならないということでした。
また、生きている生のみがGrievableであり、最初から喪われている生はGrievableではないと。だが、なかったことにされた生を事後的に嘆くことは出来るはずだということを言っていました。ここより少し前の部分で海の上で死んでいく難民の話を例として挙げていましたが、彼らは生前はGrievableではなかったものの、死を経ることでGrievableになったということでしょう。
3. Bodies(諸身体)
ここまで来て初めて、講演のタイトルであるBodies That Still Matterに行き着きます。つまり、どのようなBodiesがMatter(=Grievable)であるのかと。これに関しては講演の中で明確な答えは述べられませんでした。まだバトラーの中でも考え切れていないのかと思います。
基本的には社会民主主義的な、身体(Body)をネットワーク(Bodies)の構成要素として捉えるという話でした。Bodiesのみが存在し、よって明確に区別された単一な身体などというものは想定出来ないのではないかと。その例としてバトラーは、身体は土地や大義などに開かれており、また道路や建物、衣服なども身体が諸身体であるからこそインフラストラクチャーとして成り立っているとの話をしていました。
また、バトラーはここでMy Body, My Selfのスローガンを批判していました。自分の生が自分だけのものであり、身体が自分のみに帰属すると考えるのはリベラルな思い上がりに過ぎず、身体が何かの一部であると認めるならば身体は他の身体に依存しているということになり、それはつまり身体が相互依存性において存在することになるので、身体はBodiesとしてしか存在し得ないと。ここの流れで「私も歳をとったから唯物論の話をしても良いでしょう」と述べており、会場に笑いが起きていました。
最後に、誰の身体が重要であるのか考えることが必要になるというメッセージで講演は終わりました。
4-1. 質疑応答
休憩の後リアクションペーパーが回収され、多かった質問についてバトラーが答えていくというセクションがありました。いくつか日本のコンテクストに則った質問がありましたが、バトラーがそれを理解していないので曖昧な答えになってしまっている部分があり、残念でした。以下に説明していきます。
4-2. 個別の身体をどう考えるのか
Bodiesの理論において個別な身体はどのように想定されるのか?という質問でした。確かに単一な身体を全く想定しないというのは無理なように思われます。質問者側はラカンの他者の話をしていましたが、バトラーの答えとしては「身体 “I” が何(学校、職場、SNSなど)を代弁しているのか考えることが大事」とのことでした。
4-3. Bodyのステータスについて
人間以外の身体、動物やネット上の身体、死体はどのように政治化されるのか?という質問でした。特にネット上の身体(=ヴァーチャルな身体)について、恐らく質問者はVtuberについて訊きたかったのだと思いますが、バトラーにコンテクストが共有されていないように見えました。
動物についてバトラーは動物、そしてすべての生けるプロセスもGrievableであるべきだと明確に答えていました。ペットを可愛がりながらランチにチキンを食べることには明らかにある種の断絶があるとのことでした。
ネット上の身体については、バトラーはネットは既に社会であり、そこでの身体について考えることは必要だと明言していました。そこではヴァーチャルな身体が何を得て何を失っているのか、また現実社会と同様、身体の相互作用をどう捉えるかが重要との答えでした。
バトラー曰くこの問題についてはより深く考えている人が居るとのことでした。具体的にどなたかご存知の方は教えて下さると幸いです。
4-4. 権力が生産性を要求してくる場合どのように抗えばいいのか
明らかに日本のコンテクスト(杉田水脈)を意識した質問であり、司会の清水晶子さんも戸惑っているように見えました。会話の流れでバトラーが「日本は既に北米から様々なものを押し付けられているのでこれ以上何かを押し付けたくはない」と言っていて、会場に笑いが起きていました。
コンテクストが共有されていないので、ここは少し筋違いな答えになってしまっていました。ヘテロセクシャリズムに則った家族の再生産を権力が求めてくるということに国家アイデンティティの崩壊を結び付けていましたが、答えとしては少し弱いように感じました。
4-5. 抵抗のためのインフラ
最後の質問です。抵抗(Resist)出来るのはそのためのインフラストラクチャーがあるからではないか?という質問でした。ここでのバトラーの答えは印象的で、Daily Resistance ( https://dailyresistance.oplatz.net/ )を例に挙げ、理論とは何か、見方を変える必要があると述べていました。Daily Resistanceや街中のプロテスターたちはアクティビストかつ理論家であり、バトラーはそれに後から注釈をつけるに過ぎない、常に行動が先にあり理論が後にくると。非常に印象的な答えでした。
5. コメント
バトラー本人は言わずもがな、内なる活力が表面にみなぎっているような人物でした。(講演を聞かれた方はじゃあその「表面」って何なんだ?皮膚のことか?とお思いになるかもしれませんが、勘弁してください)バトラーはよくティルダ・スウィントンに似てるとか言われてますが、確かにセックス、ジェンダーの枠を超越した力強い魅力がバトラーにはあります。こう言ってしまって良ければ、すごくカッコよかったです。62歳とはとても思えない、エネルギッシュな講演でした。
個人的に印象に残ったのは、質疑応答で何かの弾みに出た「傷つきやすさは強さの反対ではない、世界について傷つくことが出来なければ世界に抗議出来ない」という言葉でした。
この要約を書くために貴重な日曜日の半日が飛びました。まあでも、誰かがやるべき仕事だったと思うので満足です。
はじめまして。ドイツの院にて社会学・人類文化学を学んでいる者です。貴重なお休みの日にバトラー講演について書いてくださり、ありがとうございます。遠方に住んでいるため東京まで行くことが出来ず、中継でもあるかと思いましたがそのようなリンクは見つけられなかったため、kamatotsuchiさんのような内容要約は大変助かりました。
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そう言っていただけると嬉しいです。ありがとうございます。
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kamatotsuchiさま、
シンガポールに住む心理学者、(聞かれたことがないかもしれませんが)馬療法士です。Dr. Judith Butler の講演を詳細かつ的確に要約してくださってありがとうございます。他の方の要約は、勿論なのですが、Grievability(悲嘆可能性)に終始していましたが、kamatotsuchiさんは Bodies(諸身体)にも言及されていて、Butlerの論理に強く共感、納得することができました。これを抜いては、私たちの<悲嘆可能性><共依存性>を説明することは不可能と考えるからです。
とても、楽しい要約でした、ありがとうございました。
また、折に触れ、知的な刺激を頂きたいです。どうぞよろしくお願いいたします。
Naoko Winther, Ph.D., Psychologist,
Equine Therapist
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Dear Naoko,
心のこもったコメントをありがとうございます。
乗馬療法については存じ上げております。日本では引退した競走馬が活用されているイメージですが、そちらではより一般的なのでしょうね。
当方はBodiesがGrievabilityを説明するというよりも、Bodiesの議論を導くために必要な前提としてGrievabilityを捉えていたのでこのような構成で要約を書きましたが、他の要約者の方は違った捉え方をされたのかもしれません。
匿名で失礼いたします。
Best,
kamatotsuchi
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