この街では、散々な目に遭った。そんなことをぼくは長距離電車の出発を待ちながら考えていた。背中には10kgのバックパックがあり、ずっしりと重く、体力を奪ってくる。この駅に来る途中で腹の足しにしようと買った苺はほとんどがこの40度を優に超える暑さの中、悪くなっていて、ぼくはかろうじて食べられると判断した2、3粒を残して、残りを捨ててしまった。自分の乗る電車がどのホームに来るのか、何時に出発するのか、常に気にしていないといけないのがこの国なのだが、それでもまだ1時間以上の余裕はあるように思われた。
駅舎の喧騒から逃れて外に出て、路上生活者の老婆の横に座り、マルボロに火をつけた。マルボロはグローバル・スタンダードだ。出る杭は打たれ強い。二兎を追うものだけが二兎を得る。コピーはダサいけど。10メートルほど先にいる警察官がもうかすれて何が書いてあるのかなど読み取れない標識を指差しながら、叫んでくる。ノー・スモーキング。まったくもっておかしなことに、この国では路上は全面禁煙なのだ。だが、誰がそんなことを気にしようか。昨晩訪れた禁煙のバーでは、トイレの中に灰皿が置いてあって、ぼくもバーテンダーもそこで煙草を吸った。悪しき文化はなかなか滅びない。モヒートを頼んだら夏場の沼の湖面のような飲み物が出てきて驚いたが、細かく粉砕されたミントの粉末のせいだった。
ぼくに叫びかけている警官を無視するわけにもいかないので、彼に聞こえる位の声で「1本だけだから」と叫び返すと、彼は肩をすくめ、ぼくの行為を容認した。なにせ暑いのだ。誰も余分な体力など使いたくないのだろう。
そのままそこで煙草を吸っていると、1人の男が話しかけてきた。着ている服や見た目から個人のパーソナルな情報を得ることは通常ほとんど無意識下で行われるけれど、この国ではそれは重要な対人術のひとつであった。彼のパリッとしたTシャツとデニムに、丁寧に剃られたヒゲ、比較的綺麗なスニーカーから、彼が上流階級の、害意のない人物であることはすぐに分かった。彼は言った。「君、さっき苺を捨てたでしょ。まだ食べられるのに」訛りの少ない、綺麗な英語だった。「うん、捨てたよ。あれは腐っていたからね、あれを食べたらお腹を壊しちゃうよ。何か他に食べるものを探さないとな」そう言うと彼は、自分もちょうど夕ご飯を食べるところだから、と駅舎の中にあるフードコートにぼくを誘った。断る理由もないので、彼に着いていく。「正直なところ、ここのフードコートは最悪だよ。不味くて、高い。」そう言いながら彼はぼくには名前も分からない料理を取ってきた。ぼくはコントレックスの大きなペットボトルと、チキンカレー。そういえば街中で鶏が屠殺されているのを見たけれど、あの鶏たちの肉がここでも提供されているのだろうか。あり得る話だ。暑さとグロテスクのダブルパンチで食欲が失せた。「それで、どこへ向かうんだ?」彼の質問に、ぼくはこの国の中ほどに位置する、ある有名な町の名前を答えた。「なるほど。ここよりは良い所だよ。少し暑いかもしれないけど」「ぼくにとってはここだって耐え切れない位暑いんだけどね。君はどこに行くの?」「帰るんだ。ぼくは俳優をやっていてね。西側の映画だけじゃ収入が十分に入らなくて、こっちでも仕事をしているのさ。あの監督を知ってるかい、ほら、あの…」彼が名を挙げた監督はこの国の映画の第一人者だった。彼はその監督の映画に端役で出ているらしい。それで彼の清潔な身なりにも納得がいった。
彼とひとしきり映画の話で盛り上がっていると、ホームにぼくの乗る電車が入ってきた。「電車が来たから、行かないと。楽しい時間をありがとう。」そう言って彼と握手して、別れた。彼はぼくに電話番号を教えてくれ、もし自分の街に来ることがあったら案内するから電話してくれ、と言った。
電車の中に入ると、冷房が痛いくらいに効きすぎた寝台がぼくを待っていた。二段ベットがふたつあり、ぼく以外の3人はどうやら聖職者のようだった。危ない人ではなさそうだ。彼らは英語を話さなかったが、ぼくはジェスチャーとつたない単語の羅列で、彼らに自分の下車駅を伝えることに成功したようだった。
電車が駅を出て10分も経つと、スマートフォンにVodafoneの電波が届かなくなった。ぼく以外の3人はもう電気を消して寝る準備をしているので、読書灯を点けるわけにもいかない。ベッドは硬く、毛布はチリチリと毛羽立って、おまけにディズニーランドのアトラクションのように揺れる電車ではあったが、ぼくは目を閉じた。
なにやら騒がしい音で目が覚めた。どこかの駅に止まっているようだ。効きすぎた冷房と、開け放たれた扉から入ってくる熱気が混ざり合い、なんとも言えない不快感があった。ホームから行商人ががなり立てる声が聞こえる。揚げたパンを売っているようだ。まだ起きるには早いし、アラームも鳴っていない。ぼくは毛布を引き上げて、また眠りに落ちた。
誰かに肩を叩かれて目を覚ます。目を開けると、隣のベッドで寝ていた聖職者が、ぼくに紅茶を淹れてくれていた。ぼくは礼を言い、彼から紅茶を受け取った。ダージリンだ。美味しい。それに、ビスケットまでついている。少し、涙が落ちそうになった。前の街では本当に嫌なことばかりあったのだ。外国人旅行者向けの詐欺が横行していた。彼らには他に生計を立てる術がないのだから仕方はないが、良い気持ちはしない。しかし世界にどれだけ、寝台列車に乗り合わせただけの見ず知らずの外国人にダージリンを淹れて起こすだけの優しさを持ち合わせた人がいるだろうか。嬉しかった。彼に感動と感謝を十分に伝えられないことを悔しく思った。
紅茶を飲み終えると、午前9時を少しまわったくらいの時間だった。素晴らしいタイミングだ。この列車がぼくの目的地に着くのは午前10時だから、あと1時間もかからずに下車することになるだろう。
午前10時になり、そろそろ目的の駅が見えるかと思って窓を開け、外を覗くと、ひたすらだだっ広い草原を人々が頭の上に籠を乗せて歩いている光景が見えた。おかしい。地平線の彼方まで草原が広がっている。遠くに牛が見えたが、街と呼べそうなものはその影すらなかった。忘れていた。この国では時間のことなんて誰も気にしないのだ。日が昇り、沈んで、また昇る。それだけのただひたすらに単純で、美しい世界の中に彼らは生きているのだ。
結局、午後3時近くなった頃に、ようやく目的の駅に着いた。駅舎を出ると同時に煙草に火をつける。日にひと箱を吸うニコチン中毒のぼくが、起きてから6時間も我慢していたのだから、旨さが身に沁みた。列車には車内は禁煙であり、違反者には300円ほどの罰金が科せられる旨の貼り紙が貼られていた。300円払えば好きなように煙草を吸っていいと考えれば安いものにも思えたが、その際に生じるであろう腰に物騒な銃をぶら下げた鉄道警察官とのトラブルは避けたかった。
駅舎を出るとすぐに、幾人もの男たちが声をかけてくる。「街まで行くんだろう。俺の知り合いのゲストハウスに100ルピーで連れて行ってやる」「50ルピーなら」「80」「50ルピーで折れてくれないなら、他を探すよ」そう言うと彼は自分に言い聞かせるように「オーケー、オーケー」と言った。50ルピーですら相場の倍以上多く払うのだが、たかが数十円程度の交渉に神経をすり減らすほどの精神力を、ぼくは持ち合わせていなかった。彼の言う知り合いの宿とやらが気に入らなくても、街まで行けば他にいくらでも宿があるだろう。決して損な話でもないように思えた。
ガタゴトと信じられないような悪路を彼のバイクと馬車を無理矢理繋ぎ合わせたような不恰好な乗り物は進み、ぼくは吐き気を誤魔化すようにまた、煙草を吸った。ふと通りを見渡すと、マクドナルドが見える。故郷から何千キロも離れた街までやって来ても、マクドナルドはちゃんとそこにあって、どこまでも追ってくるのだ。開業から今までにマクドナルドが生産したバーガーを全て繋ぎあわせると地球を14周する長さになり、15時間に一軒のペースで世界のどこかに新しいマクドナルドがオープンするらしい。本当に、どこにだってあるのだ。日常の全てを忘れたくて旅に出ても、マクドナルドの防腐剤まみれのハンバーガーと、しなびたポテトだけは必ず追いかけてくる。ぼくは、人類が滅びた地球で、黄色いMのナンセンスな電子看板だけが誰もいない街を照らし続ける様子を想像した。テイラーが海岸線の果てで見つけるものは、マクドナルドの看板かもしれない。砂に埋もれた自由の女神ではなくて。
彼の言うゲストハウスに着くと、もうぼくの宿泊が決まっているかのような扱いを受けたが、条件も良く、ルーフトップにレストランのような設備のあるそのゲストハウスにぼくは泊まることにした。ぼくをここに連れてきた運転手の彼もこれでいくらかのコミッションを貰えるだろうし、誰にも損はない。
朝からなにも食べていなかった。ゲストハウスのレストランに入り、コンチネンタル・ブレックファーストをオーダーしていると、店内に日本人らしき人影が見えた。一週間以上も日本語を話していないぼくは、ついつい彼に話しかけてしまった。「あの、日本の方ですか」なんと忌まわしい言葉だろうか。間が抜けているにも程がある。しかし「あの、日本人の方ですか」というひと言は地の果てで同胞に声をかけるのに最適なひと言であるように思われた。一週間も英語のみを話し続けていると、思考も英語になってくる。久しぶりに自分の口から飛び出した日本語は、何か意味を成さない旋律のように響いた。「ええ、そうですよ」彼はそう言うと、ぼくの話し相手になってくれた。彼の話は面白かった。国立大学の四年生だが、もう再来年まで卒業出来ないと決まっていること。エトセトラ、エトセトラ。こんな地の果てで大学の単位の話をするのは何だか間が抜けていて、ぼくたちは笑った。「ビールを調達出来たんです。この街だとオープンには売られていませんから、なかなか見つかるものじゃない。今、裏の冷蔵庫で冷やしてもらっています。よかったら夜に一杯やりましょう。夕飯もここでとりますから、その時に。」彼はそう言ってくれた。「ここの飯はなかなかイケますよ。期待していい。ぼくは少し行くところがあるので、また後で」そう言うと彼はどこかに去って行った。
なるほど、彼の言う通り運ばれてきたコンチネンタル・ブレックファーストはとても美味しかった。スクランブルエッグにしてもらって正解だった。塩気が適度に効いていて、美味しい。本当は目玉焼きが食べたかったのだけれど、ポーチドエッグという単語がすぐに頭に思いつかなかったのだけれど。
スクランブルエッグの遅い朝食を摂っていると、宿のスタッフらしき男が声をかけてきた。「ここには着いたばかりなんだろう?食べ終わったら案内してやるから、着いて来い。」この国には至る所にこういうやつがいて、関わるとろくなことがない。だがぼくはこの街の土地勘など全くなかったし、彼に従うことにした。多少の“賄賂”を要求されても“チップ”だと思えば気が紛れる。
昼食が終わると、彼に着いて宿の外に出る。いつの間にか小雨が降り始めていた。路上に放置された牛の糞が柔らかくなっていて、うっかり踏んでしまい、履いていたエアマックスにこびりついた。
「さて、何が見たい」「何が見たいって言われても、君が言ったようにぼくはこの街に着いたばかりなんだ、でも、川は見たいかな」「ああ、誰もが見たがるんだ。適当に色々覗きながら、そっちの方に行こうか」なかなか物分かりの良い男である。彼の案内してくれる場所は面白かった。この街が誇るシルクの生産工場などは、彼の案内がなければまずお目にかかれるものではなかっただろう。
工場の主人はぼくにそのシルクを買うことを勧めた。ぼくがどれを買うか考えるから少し待ってくれ、と言うと、彼は何やら分厚いノートを引っ張り出してきて、そのうちの1ページをぼくに示した。「ここで買って本当によかったです!品質は保証します 慶応義塾大学 2年」品物を買っていった旅行者にひと言書かせて、次の商売に繋げる作戦だ。慶の字も応の字も間違っていたが、買うことにした。一人暮らしをはじめたばかりの友人が来月誕生日を迎える。プレゼントにちょうどいいと思った。
工場を出て、歩く。入り組んだ小径を迷うことなく歩いていくゲストハウスのスタッフに必死で着いていくと、急に視界が開けた。「ここだ」彼は言った。しばらくの沈黙があり、ぼくはそこがどういった場所なのか理解した。火葬場と、千年も前に城だった、どうにか形を保っている建物があった。歴史的に重要な遺跡であると思うのだが、その中では子供たちがボロボロの板切れを振り回してクリケットに興じていた。その傍らでは、だるそうな雰囲気を醸し出す牛が午睡を貪っている。
彼は口を開いて、説明を始める。この国に住むほとんどすべての人が死ぬとここで荼毘に伏せられ、この川に流され、彼らの天国に還っていくこと。国内のみならず、世界中から遺体が届けられ、同じように荼毘に伏せられること。「ついでに言うと、あの老人が見えるだろう。彼はもうすぐ死ぬから、ここに来て、その瞬間を待っているんだ。」確かに彼が指差した老人はほとんど裸で、瘦せこけ、どうやって生きているのか分からないような状態だった。彼は話を続ける。日が昇っているうちは遺体が燃やし続けられ、川に流し続けられていくこと。元火はあちらにあると彼は指をさし、1000年以上燃え続けている神聖な火だと語った。「1000年!それは随分と長いね」「時間の長さについて言うなら、この大昔の城は4000年前に建てられたものだ」
4000という数字はうさん臭かったが、古いことに間違いはなかった。その「4000年」前に建てられた城の中では子供たちがクリケットに興じているのだが。
その時になって、ぼくはようやくこの街の独特の雰囲気を形成している源を理解した。乾季に似つかわしくない低気圧がもたらしているものかと思っていたが、違った。それは煙だった。死んでその身を焼かれ、川に流されていく人々の、最期の叫びのような、安らかな、あるいは猛猛しい煙が立ちのぼり、この街全体のスピリチュアルな、独特な雰囲気を作り上げているのだ。死者の街だ。ぼくはそう思った。
昨年、祖父が死んだ時のことを思い出した。火葬場で焼かれて、出てきた祖父の骨は癌に侵され、紫色になっていた。人の死は、とても奇妙だ。死は完全に人類の作り出した文明の外部にある。祖父が焼かれている間、ぼくは何を感じ、何をするべきだったのだろうか。目の前の光景に、小さな壺に収まってしまった祖父を重ねた。
「なんと言うべきか、とてもスピリチュアルな場所だね」「そう、とてもスピリチュアルだ、とてもね」
その光景にはいつまでも見ていたいと思わせられる不思議な魔力のようなものがあって、ぼくは時間を忘れて川辺で起こっている光景を眺めていた。
「そろそろ帰りたい。宿の場所は分かるか?」「分からないよ、一緒に帰る」「帰ったら地図をやろう。」
彼と他愛もない話をしながら数分歩くと、宿についた。「ありがとう。すごく、面白かった」ぼくがそう言うと彼は肩を竦めた。謙遜しているのではないだろう。彼のこの態度は、見合った報酬を貰えていないことに対する不満だ。商魂たくましいやつだ。ぼくは苦笑して彼に適当な札を選んで渡した。100ルピー札だった。
部屋に戻ってパックパックの荷を解き、ファンの電源を入れた。ベッドに身を投げだす。クーラーのあるゲストハウスを選ぶと、一気に宿代が上がってしまう。最初に削れるのは、クーラーだった。
先ほど見た光景にすっかりノックアウトされていた。誰かと話したい気持ちになった。行く場所はひとつしかない。レストランだ。
食堂に着くと、旅行者の姿が目立った。夕飯にはまだ早い夕方時なので、人は少なかったが、適当な席に座ると、男が話しかけてきた。ぼくは自分の名前を述べ、相手の調子を聞く、典型的だが礼儀正しいやり方だった。面白い男だった。シンガポールから来たファッションデザイナーの彼は、インスピレーションを求めて旅に出て、この街にたどり着いたらしい。彼は語る。「日本のブランドが好きなんだ。特にコムデギャルソンが」「コムデギャルソンね」ぼくは笑った。「この前スニーカーを買ったよ。ナイキとのコラボのやつ。メインラインじゃなくてブラックだけど」30分前まで川辺の火葬場の光景に衝撃を受けていたのに、今はコムデギャルソンの話をしている。頭が追いついて来なかった。
彼が散歩に誘うので着いていくことにした。夕暮れの街は本物のカオスへと姿を変えていた。人と、牛と、犬と、猿と、車やバイクの行き交う音が混じりあっていた。そしてありとあらゆるものを混ぜ合わせたような匂い。スパイスと、汗と、排気ガスと、糞の匂いだ。ぼくが「この国のドライバーはクラクションを楽器だと勘違いしているよ」と言うと彼は笑った。
彼とファッションブランドについてやり取りを交わしながら歩いて行く。最近シンガポールにはクリスチャン・ダダの路面店が出来たよね。川辺に着く。先ほどは現地人が一緒だったが、今回は旅行者の2人組だ。事情が違うので、ものすごい勢いで男たちに声をかけられる。10メートルも歩けば日本語で大麻を買わないか、と声をかけられるのだ。彼らの話しかけてくる内容を隣を歩いている男に訳して伝えると、彼は苦笑を浮かべ、チャイでも飲んで少し休もうと言った。ちょうど良い所にチャイ屋の屋台があったので、2人分を求め、適当なところに腰掛けて飲む。夕暮れの川に、大きな夕日が映っていた。
「これ、すごく美味しい」とチャイについての感想を述べていると、チャイ屋の店主が「あそこにいる牛から採ったミルクを使ったんだ」と叫んだ。美味しいわけだ。こんなチャイは日本ではどうしたって、飲めるわけがない。
30分もそこに座っていただろうか。怪しい男たちが話しかけてきては去って行ったが、1人の少女が我々の元に来た。彼女は言った。「花を買って」
今まで散々相手をしてきた胡散臭い連中と同じようにあしらおうとしたが、彼女と目が合ってしまった。悲しそうな瞳に、体が吸い込まれるような錯覚を覚えた。彼女は繰り返した。「花を買って、お願い」
ぼくが戸惑っていると、ぼくの隣でチャイを飲んでいる男が言った。「たったの10ルピーさ。買ってやれよ。俺も買う。」
ぼくたちが花を買うと、彼女は嬉しそうに走り去って行った。今日の仕事が終わったのかもしれない。
「これは、こうするんだ」彼はそう言うとその花を固定している台に火をつけて、川に浮かべた。ぼくも彼の真似をする。ぼくたちの花はゆっくり、ゆっくりと下流に向かって流れていった。
もう日も暮れたので、彼と宿に戻ろうとすると、1人の男が声をかけてきた。「なんでもあるよ。草でも。粉でも。本当になんでもあるよ、どう?女はないけどね」
ぼくたちは顔を見合わせる。お互いこういうことに全く興味がないわけではないことは今までの会話から察していた。「見るだけなら害はない」彼はそう言った。その通りだ。見るだけなら害はない。「見るだけで買うつもりはない」と男に告げると、ぼくたちは彼の店に案内された。
そこはドラッグの博物館だった。男はケースからありとあらゆるドラッグを取り出して、並べていく。「こっちは、マリファナ。こっちはヘロイン、コカイン。こっちはナチュラルのLSD」ありとあらゆる種類のドラッグを見せられてぼくたちは感動してしまった。LSDにナチュラルのものなどあるのだろうか。詳しくないが、ウソくさかった。こんなに多種多様なドラッグを一度に見ることは金輪際無いだろう。
男は言う。「正直な話、この街では酒を調達するよりこういったドラッグを調達する方が簡単なんだ。まあ、買わないと言うなら仕方ないけど」色々な街がある。
男に丁重に礼を言い、2人で宿への帰途に着く。完全に夕闇に覆われた街はそれでもまだ賑わいを見せていて、とてつもなくカオスだ。この国の人々は自己主張が強い。ぼくも負けじと頑張ってはみるのだが、とても敵いそうになかった。
宿につき、レストランに顔を出すと、何やら騒がしかった。どうやら今日は宿泊客の誕生日らしい。チューリッヒから来たという小柄だが端正な顔立ちをしたその男は、婚約者と2人でこの国を半年ほどかけて旅しているという。幸せそうなカップルだった。変わったハネムーンだと思うが、忘れられない思い出にはなるだろう。良くも悪くも。「こんな所で誕生日を迎えるなんて、ちょっと変わってるね」「人生は長いんだから、こんな誕生日があったっていいさ。君も一杯どう?」そう言うと彼はグラスにウイスキーを注いでくれた。彼に感謝して、誕生日を祝う言葉をかける。ウイスキーはあまり香ばしくはなかったが、すっきりした飲みやすい味で、ストレートで飲むのにぴったりだった。この宿のオーナーが彼のために手に入れてきたものらしい。10人以上もいる宿泊客にひと瓶のウイスキーと2本のビールでは物足りなかったが、みんな楽しそうだった。国立大学の彼は苦心して手に入れたビールをあっさりあげてしまったのだ。「だって、みんなで飲んだ方が楽しいから」彼はそう語った。
パーティーも終わりに近づき、ケーキが運ばれてくると、皆がまるで打ち合わせたかのように口ずさみ始める。ハッピーバースデイトゥーユー、ハッピーバースデイトゥーユー、ハッピーバースデイ、ディア…。
それは、紛うことなき祝祭だった。死者の煙が立ち昇る街で、様々な場所から偶然集まった者たちが、同じ曲を口ずさんでいる。人類の歴史の中で、一度限りの、祝祭だった。
照明が落とされ、チューリッヒの彼が蝋燭の火を吹き消すと、大きな拍手が起こった。